LIVE ENERGY

現代建築考文 : 藤森 照信

現代建築考 8 愛知県立芸術大学講義棟

丘の上のパルテノン。壁画は片岡球子

現代建築考 8LIVE ENERGY vol.78掲載

愛知県立芸術大学講義棟

東京大学教授 藤森照信

(写真 = 下村純一)

吉村順三は無口な人柄だった。どうしてそこをそのようにデザインしたんですか、とうかがうと、しばらく考えてから、「気持ちがいいでしょう」と一言。その先はない。私のような建築史稼業泣かせの人だった。もっとあれこれ書いたり論じたりしてくれたらよかったのに。
言うまでもなく木造住宅に定評があり、<軽井沢の家>(1962)などは20世紀木造住宅の傑作であり、21世紀木造住宅の古典として影響を与えつづけるに違いない。丹下健三や前川国男に代表される戦後モダニズムの主流からはちょっとズレたところに位置取って主流を眼光鋭く見据えていた、という歴史光景なのだけれど、一度だけバリバリの戦後モダニズムをやった。ピロティと打放しコンクリートの組合せである。
ピロティ+打放し=ル・コルビュジェという定式が20世紀の世界の建築界にはある。戦後の日本のモダニズムにおいても、ピロティ+打放しは丹下の広島ピースセンターはじめ主流派のお家芸にほかならない。そのことをよく知る吉村がどうして丹下や前川に一回りも二回りも遅れてわざわざ愛知県立芸術大学でピロティ+打放しをやったのか、私は長いこといぶかしく思ってきた。それも、おそらく世界最長のピロティ建築を。吉村ファンのなかにもなじめない感じを持つ人は多いのではないか。
で、このシリーズの機会を得て、見に行ってきたのである。

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中央に講義棟がそびえ、周囲に諸室が広がる理想的なキャンパス

名古屋の郊外の起伏の多い丘陵地帯にキャンパスはある。
坂を登り切り、右手斜めやや上方に突然現れた講義棟の姿を見て、長年の疑問は氷解した。講義棟こそピロティ+打放しの張本人なのだが、坂を登り切ると右手斜めやや上方にこっちに向かって突き出す姿はそのままギリシャのパルテノンと一致するのだ。
吉村は、はじめて敷地を訪れた時、アプローチに向かって伸びてくる尾根を見て、“この尾根の上に中心の建物を置こう。パルテノンのように”と決めたのではないか。20世紀のパルテノン。
と決めたとすると、誰が考えたって、どう考えたって、コルビュジェのピロティ+打放し、しかないだろう。

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アプローチを中二階に設けているのがうまい

なぜなら、私見によれば、ピロティ+打放しは、パルテノンから導き出された20世紀のデザイン原理にほかならないからだ。
ピロティの特徴は、独立柱が林立することだが、もちろんパルテノンの列柱と同じ。打放しは、パルテノンの大理石の20世紀バージョン。コルビュジェがパルテノンを見て、それまでの画家志願をやめ建築を目指すことになるのはよく知られているが、その時から、彼には、20世紀の技術と表現でパルテノンをつくりたいという願いが生まれ、その願いがやがて打放しの柱で建物を空中に突き上げるというデザインに結実した。

ではどうしてコルビュジェ本人はむろん丹下や前川もピロティ+打放しを実現しているというのに、周回遅れにもかかわらず吉村はやる気になったんだろう。おそらく、コルビュジェのユニテも前川の神奈川音楽堂も丹下のピースセンターも、敷地は平地に加え、アプローチは側面入りでゲート的になってしまい、記念碑性に弱点がある。丘の上に、こっちに向かって立つ、というパルテノンの印象深さは、吉村に与えられた敷地の特権だった。そのことに気付いた吉村は、周回遅れなど気にせず、20世紀のパルテノンというコルビュジェの夢を自分の手で実現しようと決めた、と私はにらんでいる。
コルビュジェへのオマージュではなかったか。吉村とコルビュジェの関係は吉村ファンの間ではあまり意識されていないが、若き日の吉村の建築家としての方向を決めたのはレーモンドが軽井沢につくった<レーモンド夏の家>(1933)だった、と吉村夫人は吉村さんの前で私に証言した。学生時代の吉村は<レーモンド夏の家>でアルバイターとして毎夏を過ごしていた。その<レーモンド夏の家>はコルビュジェの<エラズリス邸案>(1930)をパクリ、原案よりうまく実現したもので、コルビュジェもそのことを認めた。
吉村は、コルビュジェの幻の作品の中で育った建築家なのである。

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