LIVE ENERGY

現代建築考文 : 藤森 照信

現代建築考 9 木村産業研究所

当初、2階にはバルコニーが張り出していた

現代建築考 9LIVE ENERGY vol.79掲載

木村産業研究所

東京大学教授 藤森照信

(写真 = 下村純一)

前川国男の処女作は、昭和7年に世に出ている。世には出たが、建築界ではほとんど注目されず、前川国男といえば昭和6年の東京帝室コンペの落選案から話をはじめ、処女作はとばして、次は昭和15年の岸記念体育会館そしてウンヌンということになっている。こういう状態が戦後半世紀以上つづいたが、さいわい、このところちゃんと歴史を踏まえて前川を研究し論ずるようになり、処女作の木村産業研究所にもようやく光が当たりはじめた。
で、遅ればせながら見に行ってきた。場所は、前川の母方の故郷の弘前市。タクシーを降り、建物の前に立ち、思いの外ちゃんとした建物であることに驚く。前川の戦前の建物といえば、岸記念にせよ笠間邸にせよ前川邸にせよ木造ばかりで、木造ゆえの軽さと(それはそれでいいのだけれど)、木造モダニズムゆえの簡便さ(それもそれでいいのだけれど)と木造ゆえの特殊性(屋根が付く)が表立ち、コルビュジェの許で本場モダニズムを習ってきた本格派感に乏しかったが、処女作はちがって、屋根など見せない本格派のモダニズムだ。どうして本格派になりえたかというと、木造じゃなくて鉄筋コンクリート造だからだ。

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ピロティの下を回って表から裏へと車が入る

ブルーノ・タウトが昭和10年に弘前に旅した時、町はずれに鉄筋コンクリートの本格派のモダニズム建築が立ってたと驚嘆したが、当時、世界でも日本でも例外的存在だった。なぜ可能になったかというと、施主の富と識見と、そして建築家との良好な関係による。
施主の木村隆三は、パリ日本大使館付武官としてパリにいる時、コルビュジェのところに留学中の前川と意気投合した。木村が前川にダンスや酒を教えたという。東京に本籍を置く木村だったが、帰国後、久しぶりに故郷弘前に帰ると町の疲弊の激しさにショックを受け、弘前の大地主の一人として地場産業の創出を企てた。パリで似たような試みを見聞していたのだという。ホーム・スパン、家具、焼き物、こぎん(伝統の刺し子)などを産業化するための木村産業研究所がここに創立され、もちろん建物の設計は前川へ。

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入口の吹抜け。一番の見せ場

前川は木村の意気込みに答えるべくコルビュジェ仕込みの腕をふるった。そして生まれた建物の姿は、どうだったのか。
まず全体の形は、ピューリズム時代のコルビュジェに習っている。白い箱に連続窓を開け、一部をピロティで持ち上げる。木村産業研のピロティは右手側面にあって目立たないが、ピロティの下を通して裏へと車を回すやり方はコルビュジェの当時の代表作サヴォア邸仕込みといえよう。
でもコルビュジェは、昭和6年のサヴォア邸の後すぐ作風を一変させ、打放しと自然石と大胆なカーブを使ったスイス学生会館を翌昭和7年に打ち出している。

前川がコルビュジェの事務所で働いたのは昭和3年4月から同5年3月までの二年間で、この間に設計と工事が進行していたサヴォア邸と、昭和5年に起工するスイス学生会館の設計内容を知っていた。変わる前と後の両方を一所員として内側から目撃していたのである。
今日の目でみると、ピューリズム段階の前期コルビュジェか、造形力溢れる後期コルビュジェか、という話になるのだけれども、両方を目撃した前川は、帰国後の第一作に当たりどっちを選んだのか。
答えは、すでに見たようにピューリズム段階の師匠のやり方だった。
木村産業研をやっている時の前川は、レーモンド事務所の所員だったが、そのレーモンドはと見ると、後期コルビュジェを飾る案の一つであるエラズリス邸案(昭和5年)をパクり、レーモンド夏の家(昭和8年)をつくっている。
前川はどうも、後期コルビュジェの大胆な彫刻的なまでの造形はあまり好きではなかったらしい。
なお、最後に、木村産業研究所の運営についてふれると、うれしいことに大成功で、戦前の最盛期には100人から150人が働く地元の一大企業となった。現在も、木村隆三の息子の木村文丸氏によって続けられ、もっぱらこぎんを扱っている。

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