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現代建築考文 : 藤森 照信

現代建築考 10 宇部市民館

端正な外観

現代建築考 10LIVE ENERGY vol.80掲載

宇部市民館

東京大学教授 藤森照信

(写真 = 下村純一)

宇部市民館は、村野藤吾という建築家の複雑さを語る。これ以上ないほどよく語ってくれる。
村野は、戦後一貫してモダニズムに背を向け、装飾性やレンガや石の素材感を大切にしたデザイナーとしてあまりに名高いが、最高傑作と称してかまわない宇部市民館を見ると、どうもコルビュジェの影響を受けたと覚しき造形が発見される。それもコルビュジェの、もし実現していれば最高傑作となったにちがいない、かのソヴィエトパレス案の影響を。
まず平面を扇形にした点がある。当時、今でもそうだが、こうした大ホールはあれこれ検討すると矩形(長方形)が一番だが、若き村野藤吾としてはそれでは面白くない。ソヴィエトパレスは大小の扇形を向かい合わせているが、その一つに学んだとみてまちがいない。次に、市民館の前に立つ6本のコンクリートの独立柱はどうか。イメージ上の原形の一つは、ナチス建築と私はにらんでいるが、加えてもう一つ、ソヴィエトパレスの大ホールの前面の8本の板状柱が影響していると思う。 もう一つ、宇部市民館の構造の扱いがある。ソヴィエトパレスは、大アーチをはじめとする構造体を外に露出したことで知られ、この大胆不敵な扱いはその後の世界に多大な影響を与え、たとえば菊竹清訓は都城のホールで試みて雨漏りに悩まされたりしている。構造体を外に出すと、構造体と屋根面との接合部での雨漏りは防ぐことはまず不可能。

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唐突に柱が立つ。
しかし、現場で見ると必然的なように見える

宇部市民館では、さすがに屋根の上に出すことは差し控えているが、側面に回ってみれば分かるように、柱形と梁形が意識的に強調されて凸起している。
村野がいつコルビュジェに関心を持ったか分からないが、渡辺節の事務所で、イヤイヤながらしかしセッセと、アメリカン・ボザールの線を引いている時、ヨーロッパに新興中のモダニズムに目を向けていたことが分かっているし、独立してすぐの昭和5年、ヨーロッパ見聞に出かけた時にはオランダのデ・スティルを尋ねたり、ワイゼンホームのジードルングを訪れたりして、コルビュジェの作品もちゃんと見ている。

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ホールの柱の柱頭部はリング状に色付けされている。意表を突くが見事である

ではコルビュジェのどこに学んだのか。やはり、ソヴィエトパレスに最も顕著に現れている構成のダイナミズムだろう。宇部市民館の扇形平面も独立柱も、ダイナミズムを生み出す原動力になっている。
そう考えると、発言においては敵視したにもかかわらず、村野にとってコルビュジェの存在は、実はそうとう大きかったのではないかと疑われてくる。村野は、若き日に、ドイツ表現派に影響を受け、またアメリカン・ボザールを身に付けているが、この二つからでは装飾性やディテールの味わいや流れるような表皮(サーフェイス)を学ぶことはできても、そうした“芸”に活力を与える全体構成のダイナミズムは学べない。そうした芸の領分を身に付けながら、しかしそれだけでは満足できず、あるいは20世紀のあり方としては行き詰まりを覚え、その突破口としてソヴィエトパレスが役立ったのではないか。
ソヴィエトパレス案が発表された1931年は、村野はちょうど40歳で、独立してヨーロッパ見聞に出かけて帰国した年に当たる。
村野にとってコルビュジェとは、1930年代のコルビュジェなのである。

そして、戦後、昭和23年に広島平和記念聖堂コンペが開かれ、村野は審査委員をつとめる。応募したのは前川、丹下といった戦後をリードすることになるコルビュジェ派の面々。結局、教会側の意向と村野の反対で、一等になるべき丹下案は二等に落とされ、当選作なしの結末。コルビュジェ派の案について村野は次のように言った。
「いつまでもコルビュジェの建築の構想から図面の仕上げの末端に至るまでつきまとって居るのには驚きもするが……いい加減捨象されていいのではないかと云って見たくなる」
村野にとってコルビュジェは過去の、戦前の人だった。まさか、戦後の日本の建築界をコルビュジェの影がおおいつくすようになろうとは、昭和23年の段階では思ってもみなかったのである。

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