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現代建築考文 : 藤森 照信

現代建築考 11 八勝館 御幸の間

桂離宮のように腰が高い

現代建築考 11LIVE ENERGY vol.81掲載

八勝館 御幸の間

東京大学教授 藤森照信

(写真 = 下村純一)

堀口捨己は、名古屋を代表する料亭として名をとどろかす八勝館から“御幸の間”の設計依頼があった時、小躍りしてよろこんだのではないかと建築史家は想像する。“御幸の間”とは、天皇を迎えるための部屋をさす。若き日の堀口こそ、デザイナーの目で桂離宮と取り組み、学び、そのエッセンスを自分の設計に生かすことでデビューしているからだ。
結論から先に言ってしまうと、敗戦後日も浅い昭和25年に作られた八勝館御幸の間は、堀口捨己の桂離宮だった。
具体的証拠もある。たとえば、広間の南側の土壁にあく三連の丸い下地窓は、よく知られているように、桂の松琴亭に由来するし、また東側の庭に面して張り出す月見台も元は桂の月見台にちがいない。台の板張りの先の方が竹簀の子になっているが、こうした作りの月見台は桂以外に例はない。
丸窓と竹簀の子は、堀口が桂に献げたオマージュだった。堀口は大正から戦後に至る、日本におけるモダニズムの歩みと綺麗に重なる建築家人生において、いくつもの名作といくつかの駄作を残しているが、名作は、それも時代の標石となるような名作は、きまって丸窓か竹簀の子を使っている。たとえば、出世作の紫烟荘(大正15年)では丸窓を、桂とバウハウスの通底性を実証してみせた岡田邸(昭和8年)では竹簀の子を、戦後最高の茶室となるかん居(昭和40年)では竹簀の子を、それぞれ印象深く使っている。

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床の間。床柱の“弱さ”に注目

丸窓と竹簀の子の二つを印象深く使っているのは八勝館御幸の間だけだが(岡田邸にも丸窓はあるがついで的使用)、堀口がこの建物に賭けた心意気のほどがしのばれよう。
実際、見事な出来である。数寄屋建築の見方に従って見てみよう。数寄屋は、書院造りとも茶室とも見方がちがう。書院造りは、二条城で知られるように、貴人の座す床の間方向のみを見るように作られている。庭は、室内から眺めるのは主旨ではなく、広大な庭の中を歩いて楽しむ。茶室はというと、閉じた室内に内向して、床、壁、天井をぐるりと把まえる。空間として把まえる。外を意識してはならない。数寄屋はまず床の間方向に視線を向け、次いで視線を回して庭方向を眺める。内と外を別々に眺め、脳の中で内外を一つのイメージにまとめるのである。その意味ではずいぶん高度な見方を求める建物だと言わねばならない。

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堀口はこれがやりたかった。内から外へと空間をつなぐための竹簀の子。独立性が利く。

まず、室内の正面である床の間を見よう。定型化を宿命とする床の間としては、ずいぶん変わった作りだ。ふつう床柱の立つ位置で一段上がって床の間となるが、床柱より畳一枚分前に框が置かれ、そこからが床の間となる。こんなのは始めてだ。こうすることでどんな視覚的効果が現れるかというと、部屋の正面突き当たりにコロッと床の間が取りつく印象が薄くなり、部屋と床の間の中間に畳一枚分の、部屋と床の間をつなぐ空間が生まれる。逆にいうと、床の間がコロッと独立的に存在する時の、床の間の記念碑性は薄まる。この床の間は、堀口が若き日に出会ったオランダのデ・スティル派の“構成”そのままと言っていいだろう。
床の間の記念碑を象徴する床柱の扱いを見ると、このことはよりはっきりする。床柱というのに、太さといい形といい立つ位置といいほとんど他の柱と変わらないのだ。

次いで、視線をグルリと回し、室内から庭を眺めてみよう。室内と庭との間には、三段構えのつなぎの空間が設けられている。最初は障子の先の畳敷の入側、その先に月見台が広がるのだが、二段階に小分けされ、まず板版、そして竹簀の子。その先に庭が広がる。
部屋に座して奥を見ると、奥の床の間との間に一段、外の庭との間に三段。しめて四段階もつなぎの空間が設けられたことになる。もちろんつなぎの空間は、空間の流動化、連動化をうながす。
堀口の生涯かけてのテーマとは、空間の開放化だったことが分かる。内から奥に向け、内から外に向け、風の吹き抜けるような建築を夢見ていた。それも、能舞台のように精神的に固い風ではなく、雅の香りを含んだ風が吹き渡るように。

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