LIVE ENERGY

現代建築考文 : 藤森 照信

現代建築考 14 東光園

二段目のピロティ。梁と添え柱の上に隙間がある

現代建築考 14LIVE ENERGY vol.84掲載

東光園

東京大学教授 藤森照信

(写真 = 下村純一)

<東光園>を、菊竹清訓の今に至る長い建築歴の一つのピークとする見方がある。1958年の<スカイハウス>と<海上都市>にはじまり、1963年の<出雲大社庁の舎>を経て、1964年の<東光園>に至る初期菊竹のピークというのである。
確かめねばなるまい。まだ見たことがないので、行ってきた。
東光園は、鳥取県米子の皆生温泉の老舗旅館で、日本の温泉には珍しく山あいではなく美保湾を臨む砂浜の上にある。あたりは松原。
温泉街に入ると、遠目にも分かる。ふつうのビルとはまるで違う彫刻のように凹凸する建物が、7階なのか8階なのかどうも階数ははっきりしないが、スラリと立っている。
車寄せから中に入ると、視界は進行方向にスッポリ抜ける。受付のカウンターなど見えず、抜けた視線の先には、ちょっと沈んだラウンジの頭越しに、水と緑と石の広々とした庭園が広がる。その先は浜辺。あたりを見回すと、ピロティの形式を生かした作りであることが分かる。要するに、グイと2階以上を持ち上げている。

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柱梁の鉄筋コンクリート打放し美学のひとつのピーク作品

外から見て階数がはっきりしない理由は、1階からエレベーターに乗り、3階の上の階に出て分かった。3階の上は階ではなく、庭というか、展望台というか、そういうオープンなスペースとなっている。
このオープンスペースの上に、さらに5階から7階までの3階分が重なるから、何階なのか分からなくなるのである。ピロティでグイと持ち上げた上で、さらにまたグイと持ち上げた二段ピロティ。オリンピックの重量挙げのような光景といえばいいか。
戦後、丹下健三の広島ピースセンターを口火として、ピロティという珍しい作りが、空襲の後のバラックの町の上に立ち上がり、日本の復興を象徴する建築形式として世に認知されてゆくが、二段ピロティはこれが初。初にして絶後。

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添え柱付の柱とロビーのラウンジ

ピロティに立って、すぐ上の階を床下から眺めると、奇妙な現象に気付く。ピロティの柱と柱の間にかかる大梁の上に上の階の床が乗っていない。大梁と床の間に隙間があいている。
ハハン、これだナ。大梁に乗っていないのは上から吊っているからで、そのことを示すため、わざわざ隙間を一筋あけたのだ。このことは昔の雑誌で読んで知っていた。
いったんグイと持ち上げた上階から今度は吊り下げる。スカイハウスで当初提案しながら、結局実現しなかったアイディアがここで実現している。
二段のピロティ、吊り下げる床、こういう構造を可能にするには柱をよほど太くしなければならない。しかし太くすると、重苦しくかつ武骨になる。鉄筋コンクリートはただでさえ重苦しい。

菊竹はどうしたか。意外なところから突破口を拾ってきた。橋の下から拾った。橋の上から下を見ると、橋を支える本柱の脇に短い添え柱があって、本柱と貫でつながれ、フライングバットレスの役を果たしている。このやり方を鉄筋コンクリートの柱に持ち込み、本柱の回りに4本の添え柱を付けた。武骨さは残るけれど、重苦しさは相当減ずる。
二段のピロティ、添え柱付の柱、こうした構造体の作り方がそのまま表現になっている。いわゆる構造表現主義である。日本の戦後建築は、鉄筋コンクリートの構造表現主義によって世界に高く評価された。第一陣を丹下が切り開き、第二陣の代表が菊竹だった。
鉄筋コンクリートの構造表現主義には難題がつきまとい、どうしても全体の印象が重苦しくなってしまう。この難題を、東光園は、軽いバルコニーや窓の方立といった二次部材を、精妙なプロポーションと配置で構造の回りに取り付け、克服している。
大胆な構造と精妙な細部、この両立が初期菊竹の生命線だった。東光園は確かに初期のピークに違いない。

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