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現代建築考文 : 藤森 照信

現代建築考 19 藤村記念堂

土台石の“石庭”の向こうに展示室

現代建築考 19LIVE ENERGY vol.89掲載

藤村記念堂

東京大学教授 藤森照信

(写真 = 下村純一)

久しぶりに谷口吉郎の建築を見に出掛けた。戦前から戦後におよぶ谷口の長い作品歴の中でも、代表作と評して間違いないだろう。
戦前にはバウハウス流のホワイトキューブ、戦後には和風を加味した大ホテル、国の博物館などなどの前衛的作品や大作が目白押しなのに、どうして藤村記念堂をもって代表とするのか。大きさで言うとあまりに小さな文化施設に過ぎないし、つくられたのも敗戦二年目と、混乱と極貧のまっただ中。建設会社に頼むお金もないから、村人が山から木を伐り出し、河原から砂利を運んだだけでなく、大工や左官仕事もみな自分たちで手掛けている。
代表作と見なされた理由はいくつかあろう。
巧みに和風を取り込んで“新日本調”と呼ばれ、戦後の和風加味モダニズムに多大な影響を与えたこと。モダンな空間に障子をはめる効果は、ここからはじまると私はにらんでいるが、どうだろう。室内から庭へ、庭から室内へ、人とその視線の流れるような移動も、日本の伝統をうまくとらえている。敗戦の深い痛手にもかかわらず、これだけの質が生まれ、当時の建築界が勇気づけられたことも、代表作となった理由に違いない。
以上のような評価は承知しているが、“日本の伝統”というところをもっとはっきり考えてみたい。“日本的”だけでは、なんとも曖昧すぎる。

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展示室の“忘筌”

で、久しぶりに出掛けた。
冬のせいで、人影がまばらだったのが、まずよかった。木曽路は冬に限る。例の、昔の本陣の門を復原した黒塗りの冠木門を入り、巧妙な目隠しの塀の前を右折して、谷口が設計した建築らしい唯一の建築ともいうべき展示室へと進む。建築には違いないが、マア、土間の廊下である。
明治になってから焼失した旧本陣にして藤村の実家の敷地に、記念堂をつくりたいという村人の求めに、建築家は、焼跡の土台石をそのまま砂利敷の中に残し、まわりを例のヘンな目隠し塀と展示用の廊下の二つで囲み、それで答えとしたのだった。

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廊下状の展示室

たったこれだけのデザインなのに、いやそのせいか、初めてのように新鮮で、あっちこっち歩いても、ベンチに座って眺めても、飽きることがない。半日いたって見終えた感はしないだろう。
なぜなんだ。
手がかりを与えてくれたのはベンチで読んだ谷口の一文だった。土間の廊下(展示室)から外側に足許にのぞく坪庭の見え方は、例の孤蓬庵の茶室“忘筌”の障子の入口に学んだというのである。たしかに、壁の下半分しか見えない。

この一文を誘い水に、もう一度、冠木門から入り直し、一つ一つについて考えた。なるほど、そういうことだったのか。冠木門は谷口のデザインではないから飛ばして、目隠しのヘンな塀はいったい何なのか。アプローチからの視線がストレートに入るのを防ぐ短い塀と言えば、これはもう伊勢神宮の藩屏に違いない。
次の土間廊下に入ってすぐの庭の見え方は忘筌。
廊下を進んだ先には障子が現れ、端には勾欄付の縁が、腰より高い位置に張り出している。
庭側から眺めると分かるが、桂離宮の高床の縁から来ているのでは。障子との組合せからして間違いあるまい。
主役とも言うべき焼跡の土台石はどうか。失われた石もあるから、不揃いの自然石が、点々と散在する。それも、龍安寺の石庭のように河原から運んだ砂利敷の中に頭を出して。
忘筌、桂離宮、伊勢神宮、龍安寺石庭。なんだ、日本の伝統のいいもの総動員状態ではないか。忘筌以外、本人は意識していなかったかもしれないが。
藤村記念堂は、日本建築史の重箱だったのである。代表作となって当たり前だろう。

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