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現代建築考文 : 藤森 照信

現代建築考 24 出雲大社 庁の舎

打放しの壁体には矢羽根ふうな紋様が付く

現代建築考 24LIVE ENERGY vol.94掲載

出雲大社 庁の舎

東京大学教授 藤森照信

(写真 = 下村純一)

菊竹さんを見たいと思った。丹下健三に続く次の世代のホープは、私が直接聞いた限りでも、丹下さんも槇文彦さんも磯崎新さんも二川幸夫さんも川添登さんも認めていたことだが、菊竹清訓だった。
もちろんちゃんとした理由がある。若いうちから、堂々たる傑作を立て続けに実現し、世に問うていたからだ。
<スカイハウス>(1958年、30歳)
<海上都市>(1958年、30歳)
<出雲大社 庁の舎>(1963年、35歳)
<東光園>(1964年、36歳)

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村野藤吾の血脈を継ぐ手すりの装飾的細部

こうして同世代を圧倒していた菊竹さんが、途中からスピードを落とす理由について、私は、例の「か・かた・かたち」の設計三段階論あたりにあると考えてきた。造形感覚の天分が、科学的方法論にやられてしまったのではないかと。
でも、違うようだ。「か・かた・かたち」の全盛期、菊竹事務所に入って「か」のグループに配属された伊東豊雄に聞くと、「途中までは科学的方法で設計を進めても、最後の最後で、全部ひっくり返し、一日でやり直したりした。表現する者の狂気を見るようだった」。
科学的方法より狂気のほうが上回っていたのだから、私の推論は正しくない。
建築史家としては考え直さなくてはいけない。で、菊竹さんを見たいと思った。もちろん何度も見ているが、今回は出雲。大社の屋根が葺き替え中というから、それも見たいし。
何度見てもやはりいい。鉄筋コンクリート打放しの現代建築でありながら、大社の環境とちゃんとした関係を保っている。大社の建築とは必ずしも馴染んでいないが、大社の境内の白砂利敷きの地面と、杉の巨木老木の緑とは合っている。

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“庁の舎”とは庁舎(オフィス)のこと

理由を考えた。まずポイントは、全体の形にある。山形をしている。それも地面から生え出たような山形をしている。この形について、菊竹さんは、出雲平野の田んぼ“稲掛け”からインスピレーションを得たと語っているし、実際その通りに違いないが、境内の環境に合う形を探していて、山形の稲掛けを発見したのではあるまいか。なぜなら、山形は、大地や山や樹々の姿と親和性が強いからだ。
次のポイントは、造形の“小割り”にある。放っておくとどうしても塊化しやすいコンクリートを、プレキャストによって細く薄くし、取り付けている。小割りによって、周囲と響き合い、溶け合う。近年、隈研吾さんが好んで使うルーバーの効果で、元をたどるとル・コルビュジエのラ・トゥーレット修道院(1960)に行き着く。
この小割り効果を、菊竹さんは、ル・コルビュジエも思わぬところに使った。構造の大壁である。ふつうならただの平らな打放しにするところ、凹凸を付け、斜線の紋様を浮き立たせた。このやり方のインスピレーションの元は、丹下の香川県庁舎(1958)の池の側壁の“デコボコ斫り”に違いないが、丹下と違い、はっきり矢羽根状の紋様として使っている。まだ同時代の他の事例をチェックしてないが、コンクリートの打放しの壁面に装飾的な紋様を浮き立たせるという工夫は、この建物が最初ではないか。
そんなことを考えながら、中に入り、のんびり見渡しながら、建築探偵の目は、室内階段の手すりの細部へとピタリ。
読者におかれても、写真をよく見て欲しい。出雲大社庁の舎のデザインの中で、あるいは菊竹清訓建築の中で、もっと言うと戦後モダニズム建築の中で、この手すりのデザインには明らかに異質なものが混じっている。
村野藤吾。
戦後モダニズムを拒否した村野の装飾的細部のつくりなのだ。
菊竹さんから、“大学卒業後、まず竹中工務店に入り、すぐ村野さんに呼ばれ、一年ほどいて辞した”事情について聞いたことはあるが、まさか、こんなところに村野さんの影響が隠れていようとは。壁の矢羽根の装飾紋様も、村野さんの秘かな血流なのか。
日本の戦後モダニズムも奥は深い。

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